南都 十輪院 奈良市十輪院町27 TEL.0742-26-6635

こころの便り

人類に求められる精神の進化

令和4年5月27日

様々な不安が拭えない情勢の中、私たちは何を思い、何を言葉にし、いかに生かされるべきか、考えない日はありません。正義というものの捉え方、人間の精神面の成長(進化)の度合いは、長い歴史の中では確実に前へ進んでいると言えるものの、一つの時代を切り取れば、地球上には常に様々な価値観が存在し、精神面の成長の度合いにバラつきのある人々が共に生かされています。


そのような生きにくさを前提に、仏教では「不殺生(あらゆる命を尊重すること)」、「不偸盗(与えられていないものを奪わないこと)」に重きを置きますが、これらを誓い、貫こうとしたとき、一つの不安にたどり着くのではないでしょうか。「わたしたちは、どこまでもお人好しでも良いのでしょうか?」と。


法隆寺の国宝「玉虫厨子」に描かれた「捨身飼虎図」は、その問いにYESの答えを示し、私たちが欲や恐怖を離れ、安堵と共に人間の精神の進化を推し進める勇気を与えてくれているように私は感じます。


この図はお釈迦さまが何度も生まれ変わりを繰り返し、前世で善行を重ねた結果、お釈迦様になられるまでの1つのエピソードです。その中でお釈迦さまは前世で薩埵太子という王子だった時、飢えた虎の親子を見つけ、自ら崖の上から身を投げ、虎に自分の体を食べさせたそうです。


これはあくまで私個人の想像ですが、親虎は子虎に満足な食事を与えたいはずです。これは親の愛情に他なりませんが、それには殺生を伴い、親虎はその思いを、命を奪われる側に説明し、納得してもらう術を持っていません。薩埵太子の布施がなければ、親虎の方から薩埵太子あるいは一緒にいた人を襲っていたかもしれません。そうなれば、残された人間には悲しみ、あるいは虎に対する怒りや憎しみといった感情が芽生えるかもしれません。薩埵太子は、このような負の感情の連鎖を断ち切ることを、躊躇なく実行され、我欲に囚われず、来世や来々世といった場面でも同様の事を繰り返した結果、お釈迦様になられたのでしょう。


このお話が作り話(方便)であることはおそらく間違いないと思います。しかし、「来世も来々世もある」という安堵感、さらには輪廻からの解脱という世界観が、歴史上、秩序を保つ一因となったことも事実だと思います。何度もベストセラーになった絵本「100万回生きたねこ」にも生かされる意味の解釈が180度転換する様子が描かれています。ご興味がおありでしたらご一読ください。


正論を唱え、悪を罰するのみでは決して立ち行かない時代に、多くの方便を説き、少しでも秩序を保とうとされてこられた先人たちの慈悲深さを改めて感じずにはいられません。
科学技術や医療、経済が進化した現代において私たちは、有難くも語り継がれた方便を、当時の人々と同じように受け入れられる訳ではないかもしれません。しかし、その方便を生み出してくださった方々の慈悲深さに倣い、精神面の発展の足並みが揃うことのないこの世界で、その時代時代の秩序の維持に資する方便を生み出し続けなければならないのではないかと思います。


少なくとも、私たちは虎ではなく人間ですから、大切な人を守る為であったり、多くの人々の幸せを願うが故の正義が、誰かの正義と相いれない場合でも、その思い自体は必ず相手と共有できるものであるとして、理解してもらうための術を身につけなければいけないと思います。牙をむくだけあったり、抗うだけであっては、長い期間を通した人類全体としての精神面の進化を妨げてしまうと思います。


十輪院 住職 橋本昌大

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