南都 十輪院 奈良市十輪院町27 TEL.0742-26-6635

こころの便り

新年のご挨拶

令和5年1月1日

謹んで新年のご挨拶を申し上げますとともに、昨年も当山への多大なご理解とお支えをいただきましたこと、厚く御礼申し上げます。
昨年も当山を必要としてくださる方、また当山をお支えくださる方との多くのご縁によって、有難い1年を過ごさせていただいたと実感しています。本尊地蔵菩薩様のご修行に倣い、智恵と慈悲の実践でひとつでも多くの抜苦与楽の結びとなるよう精進してまいります。


「智に働けば角が立つ 情に掉(さお)させば流される 意地を通せば窮屈だ 兎角(とかく)に、人の世は住みにくい」(夏目漱石「草枕」より)


世間の人と付き合うときには、頭のいいところが見えすぎると嫌われる。あまりにも情が深いとそれに流されてしまう。また自分の意見を強く押し出すと、衝突することも多く世間を狭くする。人付き合いというのは、智と情と意地のバランスを上手に取らなければならず、なかなか困難なことだと、漱石も綴ります。


また、仏典では「兎角亀毛」という比喩が用いられます。いうまでもなく兎に角はなく、亀に毛はありません。そこから転じてあり得ないことの例えとして用いますが、さらに転じて、「言葉は妄想であって、兎角亀毛のようなものである」「人間は兎角亀毛のごときものである」といったように、物質的精神的を問わず、世の中に存在するものは全て空であるという考え方が仏教には広く横たわっています。


お釈迦様の教えは、その膨大な量と多様性を指して、八万四千という数字で表現され、数多のお経となって今日に伝わりますが、その数の多さ故、あるお経と他のお経とで、一見すると矛盾しているように思えることもあります。しかしそれこそが智恵を駆使して生み出された慈悲の実践であるように思います。


例えば、比較的耳にされることの多い「般若心経」と「観音経」とでは、いずれも主人公(?)が観音さまであるにも関わらず、その目的が、智恵の体得と慈悲の実践とに分かれるが故、受ける印象が随分と異なります。


「般若心経」では、私たちが五感で認識する自分を含めたあらゆる存在に実体はないとして「空」と表現し、私たちの感じる苦しみは、概念でしかなく、自分本位の誤った認識で生きることで苦しみを感じてしまうと説きます。そして「空」という存在の真理を知っている人は心が安らかでいられるというのです。


一方「観音経」では、災難も心の悩みも生老病死の苦も、ただ観音さまの名を一心にお唱えすれば、観音さまは即時にその声を聞き、苦しみを取り除いてくだると説きます。


皆様はどちらがお好みでしょうか?気持ちに余裕があれば「般若心経」で言わんとするところも、わからなくはない。でも本当に辛い時には「真理を見つめなさい」と言われても冷酷に感じてしまうし、観音さまにすがりたい気持ちになるかもしれない...


実は智恵の体得と慈悲の実践は、どちらか一方でも欠けてはならず、両輪で回さなければなりません。智恵の体得なくして慈悲の実践はなく、慈悲の実践なくして智恵の体得はありません。つまり智恵の体得による気付きをそのまま受け売りしてしまっては、正論だとしても慈悲が無く、一生懸命慈悲をもって生きても、智恵が無ければ自分も他者も救うことは出来ません。慈悲を実践するためには智慧が必要不可欠で、智恵を体得するためには慈悲心をエネルギーとしなければなりません。


仏様は智恵と慈悲を両方兼ね備えておられるからこそ、真理をそのまま語られるばかりではなく、救いたい方にうまく真理が伝わるよう、場合によってはまず、気付きを得られる安定した心の状態に導く事を優先されるでしょう。この慈悲の実践が「観音経」から受ける印象の正体であり、八万四千の法門が生み出された根源だと、私は思います。


この点、日常の私ごとに当てはめますと、得た気付きが自分本位の正論になってしまったり、十分な智恵を体得できていないために、慈悲を装った自己満足になったりはしないかという不安が、常にあります。臨機応変にすぐお話しできるネタも100も無いと思います。だからこそ、日々いただくお声のすべてが私の気づきの源であり、皆様とのご縁によって、本年もありがたい1年を過ごさせていただけることを光栄に存じます。


本年も、当山一同、皆様より修行の機会を頂戴しつつ、精進してまいりますので、何卒ご指導宜しくお願い申し上げます。


十輪院 住職 橋本昌大

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