南都 十輪院 奈良市十輪院町27 TEL.0742-26-6635

こころの便り

仏のはたらき

令和8年7月5日

当山の法務は、法事やお葬儀、月命日のご供養等が、1年の殆どを占めていますが、それらの儀礼の中には、私たちが日常の出来事をどのように受け止め、いかに苦しみを小さくして生きていくかというお智慧が多分に込められています。そのお智慧を、儀礼を通じて分かりやすくお伝え出来ればと日々考えております。
そこで、皆様も最近ニュース等で見聞されたかもしれないある出来事に当てはめて、仏典に語り継がれるお智慧を紹介したいと思います。本年3月11日、いわき市の市立中学校で、卒業祝い献立として用意されていた赤飯約2100食が提供直前に廃棄され、大きな議論になりました。経緯は以下の通りです。

当日午前、学校へ保護者から「震災の日に赤飯はふさわしくないのではないか」という趣旨の電話が入りました。これを受け、教育委員会は急遽、赤飯の提供を中止しました。既に調理済みだった赤飯約2100食(30万円相当)は廃棄され、代替として備蓄用の缶詰パンやアルファ米などが提供されました。その後、教育委員会には200件以上の意見・苦情が寄せられ、多くは「なぜ捨てたのか」という内容だったそうです。メディアでは、「3月11日に赤飯を提供することは不適切ではない」という意見が過半数を占めるアンケート結果や、「赤飯廃棄は不適切」という意見も報じられました。一方、「黙祷してから食べれば問題なかったのでは」や「赤飯を提供する日をずらす配慮もできたのでは」との意見も見られ、議論は、震災犠牲者への追悼とお祝い事の両立の可否、食品廃棄と配慮のバランス、少数意見に対する行政の対応等にまで広がりました。
私は、赤飯の廃棄という一見残念な出来事によって、結果的にこの保護者のお気持ちが、多くの方の耳に入り、少なからず寄り添いの兆しが見えたことに仏(摂理・法則)のはたらきを感じました。赤飯が廃棄されず、予定通り提供されていれば、ここまで大きなニュースや議論にもならず、この寄り添いの兆しは見られなかったと思います。

このニュースに関連して、ご紹介したい仏典のエピソードは、子供を亡くした母親キサー・ゴータミーの物語です(「キサー」は「痩せた」という意味)。
母親ゴータミーは突然幼い息子を亡くしてしまいます。彼女は悲しみのあまり、息子の亡骸を抱えたまま、助けを求めて町中をさまよい、お釈迦様のもとへたどり着きます。お釈迦様は「その子を治す薬を作るため、“まだ一度も死人を出したことのない家”から芥子(けし)の実をもらってきなさい」と伝えます。母親は希望を抱き、町中の家を訪ねますが、どの家の人も、父を亡くした、母を亡くした、子を亡くした、配偶者を亡くした・・・と言い、「死を経験していない家」は、一軒もありませんでした。母親は「悲しんでいるのは自分だけではない」「死は、すべての人に訪れる」と少しずつ気づき始め、やがて息子の亡骸を葬り、修行者となったと伝えられます。

この物語において、お釈迦様は母親に対し、「人は必ず死ぬ」「執着するな」とは言わずに、“本人が自分で気づく道”を与えました。そして、母親は悲しみを孤立させず、自ら町中の人と共有し、同じ経験をした人とつながり、自分だけが苦しい訳ではないと知りました。
「諦」という字は、「あきらめる=ギブアップ」の意味で使われますが、本来の意味は「真理をよく見極め、明らかに成らしめる」ことです。
私たちは、自らの苦しみを孤立させず、勇気を出して共有することで、寄り添いを得ることが出来ます。そして、自分自身が他者に寄り添う気持ちになれない時でも、誰かが寄り添う側に現れますようにと、仏の働きを願うことが出来ます。
一人一人が自らの行動を仏の働きに近づけ、ことばを仏の響きに近づけ、心を仏の智慧に近づけることが出来れば、多くの寄り添いが生まれ、苦しみが減ります。
世界はそういう風にできていると思います。

十輪院 住職 橋本昌大

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